6 Mar – 10 Apr 2021
鈴木孝幸 /Takayuki Suzuki
不在の旅人 place / image
13:00-18:00
日・月・祝日休廊
※ご来廊の際には事前に電話かメールにてご予約をお願い致します。
※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、オープニングレセプションは開催致しません。
2020年4月に亡くなられたGallery HAM神野公男さんに敬意を込めて…
お酒を飲みながら何度も交わした彼との会話の中で、印象に残っている言葉は数えきれません。
中でも、その当時開催されていた展覧会、作品について、「見なくても分かる」とおっしゃっていたことが印象に残っています。
コレクターとしての経験に裏打ちされた、強い発言でした。
多くの作品を見てきたからこそ、見なくても想像の範疇にある、あるいは、もう見たことがあるから分かる、そんな風にすら感じられました。
〈中略〉
それは、自分はそこには行かないこと、彼はそこにはいない、ということを意味していました。
いいえ、「見なくても分かる」という点において、彼はそこにもういた、ということかもしれません。
いずれにしても、現場でしか、この場合、展覧会場や作品との対峙の中でしか見ることのできないもの、感じることのできないこと、というのが確かにあります。
ちょうど、この文章の中の省略されてしまった部分が、個展の会場でしか見られないのと同じように。
いくつかの旅。
私は異なる仕方で、小さな旅をしました。
自分の意思をもって、体をもって、見たいものを求めて歩き、その中で出会った全てのものごとから様々なことを感じとる旅。
地図や衛星画像を頼りに、その図の指し示す場所の過去や現在、未来に思いを巡らす、質量のない、地図上の視覚と認識の旅。
その場所でしか感じられないこと。そこを離れたからこそ見えてくるもの。
接近した視点と俯瞰した視点。
そのどちらにも、私は存在します。
旅の途中で石を拾い、木の枝を拾い、草をかき分けて進む接近した視点の中にも、ページをめくり、画面を指でスライドさせる、その平たい視点の中にも。
どちらが正しくどちらかが正しくない、ということではなく、どちらかは真実に近くどちらかは離れている、ということでもなく、それらの視点は常に同時進行で常にそこにあります。
そして、どちらも否定する余地のない目として。
また、私たちがコミュニケーションを大切にする限り、そこで生まれたイメージは、俯瞰と接近をうやむやにしながら、やがて共有されていく可能性を帯びているようにも思います。
矛盾のようですが…
そこにいるけれどもいない、そこにいないけれどもいる。
人は隠れることも表に出ることもできます。
そしてただただ想像することも。さらにその想像を共有して拡張していくことも。その想像を隠すことも表に出すことも。
個人的な旅は、人間の存在について、または、その不在の状況について思いを巡らす場所をつくりえるのでしょうか。
考えながら歩く、時には走る、私の旅。
不在の旅人。
鈴木 孝幸