30 Jul - 24 Sep 2011

平川典俊 / Hirakawa Noritoshi
魂の本質 / The substance of soul

13:00-19:00
日・月・祝日休
Closed on Sun, Mon and Holidays

Artist talk, Opening reception / 17:30 - 20:00, 30 Jul 2011

「魂の本質」The Substance of Soul (2007年)
 「ここの写真に写っている女性(彼女)たちは、普段の服を着て、公共の場所で見せるような普通の姿勢をとっている。しかし同時に、彼女の最も内密的な感情が明らかにされている。この写真を見る鑑賞者は、女性の羞恥が、彼女の困惑や喜びをもて遊ぶことをもたらしていることを認知することによって、ほぼ無垢な感情を呼び起こす。この写真のシリーズで私は、ヌードよりももっと内密的なものを表現したいと思っていた。彼女の下着の上に視覚で確認できる湿った部分は、彼女の感情がそこにあらわれていることを証明している。彼女は鑑賞者にとって普段と変わらない態度を装うが、実際には小水のシミはこの場において当惑させる状況ではあるが、女性の虚飾の限界を越えた不適切な事態である。彼女の魂の本質は、女性的な清潔の定義と日常における姿勢と態度の隠し包まれた現実の一部を、この矛盾を通じてあからさまにしている。」

“Streams By The Wind” (2002年)
 Heat Stroke(ヒートストローク)は、「Streams By The Wind」と題されたスライドプロジェクションシリーズの2番目のインスタレーションである(2002年制作)。80枚のイメージによるスライド形式で構成され、音声はなく、物語的な連なり(80枚のカルーセルによるスライドプロジェクターを使用)によって展開する。このシリーズは、ひとりの男性(父)とひとりの女性(娘)との間で交わされるインタラクション(相互関係)によって成り立っている。これらの人物は相反する特性を持ち、あらかじめ定められた配置に限定されるものではない。善悪の決定のようなものはなく、文学や映画によくある慣例と同様に、最も現実的な人間たちはこれ以上に、より複雑なのである。各々の人物は完全に主観的で、悪として見なされている出演者にとっては、良いと運命付けられているものとスイッチングする。平川のプロジェクトのねらいは本質的な人間のインタラクションの動きを見せることにある。それは、近代の映画や文学の持つ物語からは逸脱したものである。彼は、各々の場面で何をすべきかジレンマに陥っている多面的な現実の人物を生み出すことに興味を持ち、その動きは型にはまったキャラクター特性ではなく、特別な環境へのリアクションとなる。作品タイトル「Streams By The Wind」はこの全体のテーマに言及している。その人物は、落ち葉が突風の中でとらえられ、そよ風に吹き飛ばされるように、その時々に翻弄される。彼らのリアクションは、ほとんど操作不可能なのである。「Heat Stroke」とは、性を異にする父親と娘の物語である。娘の寝室で、マイケルネーダー(Michael Nader)が演じるその父は、夜中に娘の寝室から聞こえてくる唸り声に驚き心配して部屋に入る。ベッドに寝ていたSimone Collinsという娘を、父は助けようとする。ふたりとも全く予想しなかった状況に追いつめられることでインタラクションを開始するが、思いがけない推移になってゆく。

アーティスト・トーク テキスト
「人為」を越えてマクロな視点で人間の存在のあり方を問い直す
 日本で国策としておこなわれている事業の多くには、必ずといっていいほど、「原則」という言葉がその釈明のはじめに使われている。これは老子の語った「人為」という意味にも解釈されよう。
 この場合の「原則」というのは、国民や人間の視点から捉えた倫理や文化に基づいて語られているのではなく、あくまでも国を司り運営をおこなっている制度の立場からの、そうでなければならないという絶対的基準をもとに語られていて、それに追従しない国民は、罰則を受けるに値する「国策の反逆者」というレッテルを貼られることも多い。
 原子力発電所や核燃料再処理工場などの莫大なる費用をつぎ込んで建設されている施設は、それに関わる半国営企業や地方公共団体だけではなく、世界の環境や食生活および人体に多大の影響をおよぼすことが明らかであるにもかかわらず、それを推進していく国や電力会社は、テレビや新聞などのマスコミを操作しながら、世論からの問題提起を封じ込めている。人間は環境と分かち合うことによって、はじめて身体を維持させることが可能なのであり、「原則」の行使によって、多くの人々の身体や共に存在する環境をも物理的に滅ぼし傷つけ、決して現実(倫理、文化)的な選択ではない。また、その行使している制度側の人間やその家族にも、その被害がふりかかってもくる。この実行にかかる負荷が、経済に対しても人間および環境の存在に対しても大きすぎる上に、将来に続くその責任問題も明らかにしていないのは不思議である。
 そもそも「公民」という国民ひとりひとりのことを示す言葉は、英訳で「Freeman」と呼ぶ。ひとりひとりの幸福を最大公約数として、お互いに了承するための組織として、国民のための国民を思う政府があり、それを最小公約数として「公民」の幸せを奪う行為、すなわち制度による現在の「人為」は、これからは「公民」の視点からの書き換えにより、無為自然に近い世の中のあり方に修正することができる制度に組み変える必要があるだろう。そのような人道的為政者を「公民」は生み出す時であるし、それを意識することが出来る時代が世界中でようやく生まれている。アート(覚道)はその流れのイニシアチブを社会に対して担い、多くの模索している「公民」に勇気を与えることになるだろう。それによって、結果として「公民」が本来の真のFreemanとして求めるものと、「制度」が真のPublic Servantとして提供するものとの間で、より良いバランスが生まれるようになることも、決して不可能ではないと信じている。

平川 典俊