18 May – 29 Jun 2019
先間康博/Yasuhiro Sakima
long tale
13:00-18:00
日・月・祝日休
Closed on Sun, Mon and Holidays
Opening reception / 18:00 - 20:00, 18 May 2019
「目を歩む」 (林檎No.165,166)
写真はカメラの枠組みで見るもの。カメラのガラス面を覗き込み、 ルーペでピントを確認しながら、薄暗く映る反転像に集中してきた。 しかし、林檎園の光景はどこまでも続いていく。そういった中で撮影 するということは、その連続した空間の一部に意識を集中するという ことでもあるのだが、その撮影と撮影の間にもその光景はつながって いる。いつしか私は、いつも次の撮影へとカメラを担いで歩いている 間の光景も含め、その総体を捉えようと思うようになったのである。 一人、林檎園の中を歩む様。それは絵巻物を覗き込み、一人絵の中を 彷徨う様にも似て、次の展開への思いを馳せている。私の目は、その 先、何を捉えようというのだろうか。
「全像を追って」 (林檎No.170)
屏風絵や襖絵を見る時、まずは近づいて、一枚一枚の絵を辿る。 そして少しづつ引いて、その眺めを楽しむ。そして最後は、出来る だけ遠くに立ち、その全像が持つ力の届く範囲を計ろうとする。 そのようにして作品を作ったのではないけれど、一回の撮影は一枚 の絵を見るごとく、撮り進めるたびにその姿は展開する。その場で は引いて見ることができず、全体像は掴めない。カメラのガラス面 越しに見る姿の記憶の重なりを、頭でなぞるだけである。そこで思っ た姿。それが、いまここに現れているのか、いないのか。それでも 写真としての姿は、ここに現れている。
「修学院の鯉」 (林檎No.171)
修学院離宮の中の御茶屋の客殿に、鯉を描いた 杉戸絵がある。その鯉があまりにリアルなため、 庭の池に飛び出さないように網を書き加えたとい う。修学院離宮は、高校の頃の憧れ。風景の先生 ともいえる私の未だ見ぬ理想郷であった。昨年、 二度程訪れることがあった。最後の写真のネット は、自分の中での林檎の存在が大きすぎて、写真 から飛び出さないようにと貼られた、ネットなの かもしれない。修学院同様、この網にも、綻びが あるのだけれど。
「Panorama」
パノラマ用のカメラも存在するし、デジカメなどでもそのような設定があるので、 それらを使えば、そのような撮影はできる。しかし、普通のカメラのフレーム同様、 それらは外から規定された枠でしかない。人間の目は、その時々で、一点を見つめたり、 時に体も動かしながら、広く眺めることもできる。その大きさや幅は、その場所、 その時の心持ちにより様々である。カメラはある種、それらの物事を一つのフレーム の中に押し込めてしまう装置でもあるのです。私は、続いていく林檎園を見ていくうち、 一つの方形に囚われず、見ているようにカメラで見たいと思ったのです。そこで、 フレーム内の上下に、要らないものが映るのも構わず、頭の中でこうしたいと思う 横長の風景を、撮影してみたのです。ですから、これらを、普通にフィルム全面を プリントすると、とてもつまらないものでしかありません。けれども、頭の中に残った 撮影時の風景を想い、フィルムから細長に抜き出すと、その時の永く続いていく光景 が再び現れてきたのです。そして、それをきっかけにして、フレームの外へも、その 意識は広がっていったのです。
「見るを楽しむ」
見るを楽しむ。写真を撮影することは、見ることである。目で数えきれない光景を 見、カメラ越しに確認し、いままで多くの写真を撮ってきた。それらをさらに選びだ し、いまここに展覧している。今回、何気なく目で見ている時の林檎畑の光景に従い、 目で追う姿を表してみた。見通し、歩いて確認して、次を歩む。その視線は様々に変 化をして動いていく。それはおそらく、このような場所でなくとも、日々、人々が行っ ていること。それを改めて意識して見る楽しみ。そういったものを、味わって頂けた ら幸いです。立ち止まって、あるいは歩きながら、そして、一つ一つ、つながって。 近づいて、時に離れて、目を遊び、全体を通して何かを見てくれるようなことがあっ たとしたら、それはとても幸せなことであります。
「 Zeit」(1)
その Zeiten(=時々)を歩みながらも、立ち止まってこれまでのことを眺めてみる。 そのことによって、これまでの歩みが見えてくるものである。けれどもいまは、見る ことを伏せ、ただ流されていて、いづれどこかの波にのまれゆくようにも思える。 こういう時にこそ、激しくあった歴史の流れを遡り、過去にいまを照らすべきではな いだろうか。しかし、いまは、都合よく抜き出しこそすれ、清濁併せ見ることはない。 ここには、都市の反映も、戦乱の様子も、なにもない。ただ、林檎畑が続くだけ。 それでも、時は、光を揺らめかせるもの。移りゆく姿にあがなえず、受け入れてこそ あるいまを、思うことこそ、我あらん。
(1)Zeit、ドイツ語で「時」の意味。Zeitenはその複数形。お世話になった、日本で一番最初 に写真のコマーシャル画廊 ZEIT-FOTOSALON(東京)を開き、2016年に亡くなった石原悦郎氏 を偲んで。
「秋風とともに」
杉木立の中を長い坂を上り、県境の峠を越える。温泉街の先の小さな山を越えると、 平坦になり、その先に岩木山の黒い影が現れる。大抵は夕方か夜なので判然とはしな い。けれど翌朝、宿泊先の宿から青空の中に、その偉容を占めている。到着してまだ 始動しない頭をよそに、やおら準備をして山際へと車を走らせる。街中を抜け、住宅 と田園の風景の中に、所々林檎園が現れる。さらに山際の集落を抜けると、一気に広 大な林檎園が左右に、延々と広がっている。その中を道は進んでいく。しかし、道は 意外と広く、沢山の木々が、林檎園ごと車窓から通り過ぎていく。そういった中を、 時に逆戻りして確認しつつ、撮影すべき畑を探す。けれど、流れゆく林檎畑は、その 流れの中の全体でしかなく、一つの畑、一本の木、林檎の成り具合まで、瞬時に確認 することは困難である。それでも、残像の記憶を頼りに、想像する地点で車を止めて みる。そこもやはり、何気ない林檎園。このまま降りて、探しても、何もないかもし れない。そのまま、再び車を動かすこともあるが、心定めて、降りて撮影の準備を始 める。車を置いて、カメラを担いで、林檎を横目で見ながら、歩き始める。ただ、単 調に、林檎の木が続いていくだけで、立ち止まって、カメラを覗き込む程でもないよ うにも思える。そういった思いが延々と続いて、畑の中を歩き続ける。その時間は、 長い時も、短いことも。歩きながら、林檎を目で追い、考えをめぐらせる。その結果、 いったい何が違うのか、とただ時間を費やしただけで、車に舞い戻ることもあるが、 その先に何かあるような予感がし、実際近づくと、確かに何かありそうだと思い、立 ち止まって、三脚を立てる。そんな時、すでに撮るべきものが決まっていて、あとは シャッターを切るだけであったりもする。でも時には、打算的に、そろそろ三脚を置 いてみないと、車から降りた意味もないな、と思って、立ち止まることもある。そん な時は、カメラのアングルをいろいろと動かして何かを撮ろうとするが、結局、何も 撮りたい気持ちにはなれず、時間だけ費やす結果になることもある。とはいえ、なん とはなしに一応の収まりを感じ、シャッターを切ることもある。そのように、撮ると きは、何か考えているようで、結局は考えてもいないようなものでしかない。それで も、林檎園の中にいるという、確かな存在だけは感じ、どこか覚醒された、私にとっ てはとても豊かな時間である。そういった時間の積み重ねが、私の視覚への意識を高 めたのか、撮影したものの残像が頭の中に蓄積され、今見ている姿と合わさり、回り 込む前の姿、そしてこの先の姿を思い浮べ、その全てがどこか一体のものと感じとれ るようになってきたように思う。今見ている光景は、かつて見たものであり、この先 続くであろう光景。そして、林檎園は岩木山を回り込み、延々と続いていく。
言わずも語り続ける、林檎の木々。
途切れることなく、丘の上を埋め、
永遠の物語のように、時とともに。
歩むことは、大和由佳(1)の杖で歩む作品に似せ、水平な構図は井手日出志(1)の水平 線の作品に似せ、絵巻物の目の辿りを結びつけて、作ろうとしたのかもしれない。 でもそれは、写真を撮り、歩くこと、そのものでもある。飽きもせず、林檎の中にい ることは、見る者には同等に見えるかもしれない。しかし、卓上の瓶を描きつづけた ジョルジュ・モランディの如く、変わらぬものの変化に、見ることの本質を見いだせ るような気がしている。この平遠(2)が、次第に深遠(3)(風景の本質の奥深くに入り込 む様) へと向かうことを願って。
(1)大和由佳、井手日出志:いづれもGaleryHAMの作家。
(2)平遠:東洋絵画の山水画でいう所の中景のこと。高遠(見上げるような遠景)、深遠とと もに、三遠という描き方の手法の一つ。本来は、連なる遠くの山々を描くことで、ただ平ら なことを意味しない。あくまで私的な誤用でしかない。
(3)深遠:東洋絵画の山水画でいう所の近景のこと。こちらも本来は、高い所から俯瞰で山の 麓の眺めを描くことで、分け入ることを意味しない。これもあくまで私的な誤用。
「long tale」
広大な林檎園の中、歩みを進めていくと、その表情が一歩と言わず、少しの動きに合わせ、刻々と変化していく。
そうした十年を越える自身の歩みの中で、何かが見えたと思う瞬間にカメラを置いてきた。
このようにして捉えた写真の数々は、私の中で蓄積され、再び林檎園に向かわせる原資となってきた。
けれど、気付けば、その残像は次第に重なり合い、お互いにつながり、林檎園の総体に、私の意識を向かわせるようになっていた。
今見ている場所で、その前の風景を思い、その先の風景を想像する。
そして、いつしか風景は、一つのつながりとして、私の頭の中に姿を現していた。
歩みながら風景を見ること。それは、目線だけでなく、身体の移動も伴って、木々の時空を果てしなく彷徨う。
そういった中で写された写真の連なりは、実際の林檎園とは別に、もう一つの新しい物語(tale)をともなった“風景”として、今ここに、表される。
しかしこれで私は、風景という掴みどころのないものの、尻尾(tail)の先っぽだけでも掴むことができた、と言えるのだろうか。
それは甚だ疑問ではある。けれど、この新たな広がりは、さらなる風景の尻尾を追って、林檎園のさらに奥に、私を立たせることになるだろう。