先間康博 / Yasuhiro Sakima

1966福岡生まれ
名古屋在住

「風立ちぬ」(2010年8月28日−10月2日/Gallery HAM)

セザンヌがかつてテーブルの上で行ったように、林檎畑の中でその把握しきれない無数の林檎達を、どうやって捕らえるきることができるのかということに挑んできた。あまりにも撓わにに実った林檎の木々は、ほんのわずかに動くだけでその構図は一変し、写真機でそれらを捕らえるということは、まさに不可能性の探究のようなものであった。その上、よく風が吹き、それらの行為をさらに困難にしていた。けれど、風もまたそこに存在するもの。そこには、林檎のまた新しい存在が生まれている。我々も、様々な風のなかに生きているのだから、それをも捕らえることは、より本質的ではないだろうか。絶えず変化する風によって変幻し続ける林檎を、そのものとして捕らえることに挑んだ作品群である。
タイトルについて
「風立ちぬだね」とこれらの写真を見た、私の恩師、写真評論家の福島辰夫氏。今でこそ知る人も少ないが、戦後の写真界の革新を東松照明らと行った方でもある。堀辰雄の『風立ちぬ』のことである。多少甘美な文学的香の強い作品であるが、自然の描写にははっとするものがあった。また、そもそもの原典であるポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』の一節では、「Le vent se lève! … il faut tenter de vivre! (風立ちぬ、いざ生きん)」と、もっと力強いものである。生きることは、我々が生きることでもあるとともに、作品が生きること、作品の中に林檎をどう生かしきることができるかということまで含めて考えあわせると、私自身にとっても深く考えさせられる言葉であった。
写真の終り
写真機が光を集め、フィルムの上に一粒子一粒子づつ捕らえ、その捕らえた粒子を再び、引伸機で印画紙の上に置いていく。そこには、人間の関知しえない光との直接的な関係があり、確かにそこに光があったという痕跡の存在感には、揺るぎのないものがあった。けれども、昨今のデジタルの進化により、従来の写真システムはすでに消えつつあるものとなっている。それはある意味、必然なのであろう。しかし、より良い視覚とされるもの。それは、現実を写し出すものとして生まれた写真の代用品というよりも、あくまで人がよりよいと思うものである。現実は違っていても、こう見えたはずだというものを目指しているような気がする。必要以上に派手な色彩。注目している所には異常に細部にこだわるのに、それ以外のところは無頓着な感覚。撮る人の意志などいらないかのような様々な機能など。そこには、出来上がってくる写真の方からは教わることはしない、すでに自分の中にあるイメージだけを写真に求めるものでしかない。
確かに、それらを熟知している写真家などは、そのようなことを回避することはできるだろう。しかし、普通の人々の目は、このように自分の欲望のまま、世界を知る目を閉ざしてしまうような気さえしている。プリントアウトが意外と面倒であることから、そもそも流れ去る映像としてのみしか見ることがなくなっていることで、さらにそれらのことは加速していく
のだろう。この百数十年、写真によって、膨大な画像が蓄積されて来た。しかし、デジタルデータは、見ようとする意志がない限り、画像として現れてこないものである。結局のところ、それらは二度と開かれないデータなのである。あいまいな人の記憶とともに、明日にはもう存在の無いものと同じなのである。従来の写真の実際の画像が朽ち果てるよりも早く。
そのように思うと、今回、すべてを、消え去りつつあるフィルムと印画紙というもので作品を製作したことは、とても貴重なことではないかと思っている。現に、ここで使用した印画紙はすでにほぼ生産を中止しているもので、この存在感ある色彩を得ることは今後不可能なことかもしれないからである。できうれば、印画紙という非常に薄いものではあるが、物質として存在感が確かにあること、そして、そのことによりそこに閉じ込められたかつての光の痕跡というものを、感じて頂ければと思います。
多様性
くしくも、愛知トリエンナーレのキューレター、ヨヘン・フォルツがリニアー(線形的)な解釈を否定していたように、物事を直線的に理解していくことには常々疑問を持ってきた。なぜ林檎か。それを一言で答えること。それで理解したような気になること。それで、はたして本当に理解したということになるのだろうか。写真は、意図しない部分も多様に含んでいるものである。私の意図もあれば、そうでない部分もある。そもそも、自然と人工の境界というものに注目して着想を得たが、それはきっかけでしかない。撮るうちに、構図の困難さから、セザンヌの卓上の林檎を思ったのもあくまで一つのことであるし、その林檎が小宇宙を表していると思われたのも。また、風を見ることは運動性の追求であるし、モンドリアンの抽象への転換期の樹木の絵画を思ったこともある。様々なこと。写真、絵画、社会など私が色々考えてきたことから、これらの作品は生まれてきているように思う。だからこそ、より複雑であり、一言で何か言えるようなものでもないような気がしている。少なくとも私は、何か一つの理由から一つの作品を生み出そうと考えていない。見てきたもの、感じてきたもの、その全てから、作品を生み出すこと目指している。

2010年8月28日 先間康博